仏教 東洋の宗教
॥ नमः सर्वज्ञाय ॥
आर्यावलोकितेश्वरबोधिसत्त्वो
गंभीरायां प्रज्ञापारमितायां
चर्यां चरमाणो व्यवलोकयति सम । पंच
सकंधाः तांश्च स्वभाव-
शून्यान्पश्यति
स्म ।
इह शारिपुत्र रूपं शून्यता शून्यतैव रूपं रूपान्न पृथक्शून्यता
शून्यताया न पृथग्रूपं यद्रूपं सा
शून्यता या शून्यता तद्रूपम् ।
एवमेव वेदनासंज्ञासंस्कारविज्ञानानि ।
इह शारिपुत्र सर्वधर्माः शून्यतालक्षणा अनुत्पन्ना अनिरुद्धा
अमला न
विमला नोना न परिपूर्णाः ।
तस्माच्छारिपुत्र शून्यतायां न रूपं न वेदना न संज्ञा न
संस्कारा
न विज्ञानानि । न चक्षुःश्रोत्रघ्राणजिह्वाकायमनांसि ।
न
रूपशब्दगंधरसस्प्रष्टव्यधर्माः । न चक्षुर्धातुर्यावन्न मनोधातुः ।
न विद्या
नाविद्या न विद्याक्षयो नाविद्यक्षयो यावन्न जरामरणं
न
जरामरणक्षयो न दुःखसमुदयनिरोधमार्गा न ज्ञानं न प्राप्तित्वम् ।
बोधिसत्त्वस्य
प्रज्ञापारमितामाश्रित्य विहरति चित्तावरणः ।
चित्तावरणनास्तित्वादत्रस्तो
विपर्यासातिक्रांतो निष्ठनिर्वाणः ।
त्र्यध्वव्यवस्थिताः सर्वबुद्धाः प्रज्ञापारमितामाश्रित्यानुत्तरां
सम्यक्संबोधिमभिसंबुद्धाः ।
तस्माज्ज्ञातव्यः
प्रज्ञापारमितामहामंत्रो महाविद्यामंत्रो
ऽनुत्तरमंत्रो ऽसमसममंत्रः
सर्वदुःखप्रशमनः सत्यममिथ्यत्वात्प्रज्ञा-
पारमितायामुक्तो मन्त्रः । तद्यथा
गते गते
पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा ।
इति प्रज्ञापारमिताहृदयं समाप्तम् ॥
॥ नमः सर्वज्ञाय ॥
ナマハ サルワッギャーヤ
南無 一切智
आर्यावलोकितेश्वरबोधिसत्त्वो
アーリャ アワローキテーシュワラ ボーディヒサットゥウォー
聖なる 観自在 菩薩が
गंभीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्यां
ガンビヒーラーヤーン プラッギャー パーラミターヤーン チャリャーン
深遠な 般若 波羅蜜多において 行を
चरमाणो व्यवलोकयति सम ।
チャラマーノー ウィャワ ローカヤティ スマ
行じつつ 見極め た。
पंच सकंधाः तांश्च
स्वभावशून्यान्पश्यति स्म ।
パンチャ スカンダハーハ ターンシュ
チャ スワバハーワ シューニャーン パッシュヤティ スマ
五 蘊が存在し そしてそれらを 自性 空である と見 た。
इह
शारिपुत्र रूपं शून्यता
イハ シャーリプットゥラ ルーパン シューニャター
この世において 舎利子よ 色とは 空性であり
शून्यतैव रूपं रूपान्न पृथक्शून्यता
シューニャタ イワ ルーパン ルーパーンナ プリタハック
シューニャター
空性は まさに 色である。
色と 異なること がないのが 空性である。
शून्यताया न पृथग्रूपं यद्रूपं सा
शून्यता
シューニャターヤー ナ プリタハッグ ルーパン ヤッドゥ
ルーパン サー シューニャター
空性と 異なることが ないのが 色である。
色 であるもの それが 空性である。
या शून्यता तद्रूपम् ।
ヤー シューニャター タッドゥ ルーパム
空性 であるもの それが 色である。
एवमेव वेदनासंज्ञासंस्कारविज्ञानानि
।
エーワム エーワ ウェダナー サンギャー サンスカーラ ウィッギャーナーニ
まさに このように 受 想 行 識がある。
इह शारिपुत्र सर्वधर्माः
शून्यतालक्षणा
イハ シャーリプットゥラ サルワ ダハルマーシュ シューニャター ラクシャナー
この世で 舎利子よ 一切 法は 空性という 特徴を持つ。
अनुत्पन्ना अनिरुद्धा अमला न विमला
アヌットゥパンナー アニルッダハー アマラー ナ ウィマラー
生じず 滅しない。 汚れがなく 汚れがないこと もない。
नोना न परिपूर्णाः ।
ノーナー ナ パリプールナーハ
減らず 増え ない。
तस्माच्छारिपुत्र
शून्यतायां न रूपं
タッスマーチ チャハーリプットゥラ シューニャターヤーン ナ ルーパン
それ故に 舎利子よ 空性においては 色 がなく
न वेदना न संज्ञा न संस्कारा न
विज्ञानानि ।
ナ ウェーダナー ナ サンギャー ナ サンスカーラー ナ ウィッギャーナーニ
受がなく 想がなく 行がなく 識がない。
न चक्षुः
श्रोत्रघ्राणजिह्वाकायमनांसि ।
ナ チャックシュシュ シュローットゥラ グフラーナ
ヂッフワー カーヤ マナーンスィ
眼 耳 鼻 舌 身 意 がない。
न रूपशब्दगंधरसस्प्रष्टव्यधर्माः ।
ナ ルーパ シャッブダ ガンダハ ラサ
スプラッシュタッウィャ ダハルマーハ
色 声 香 味 触 法 がない。
न चक्षुर्धातुर्यावन्न मनोधातुः ।
ナ チャックシュル ダハートゥル ヤーワンナ マノー
ダハートゥフ
眼 界 がないし ついには 意 界 もない。
न विद्या नाविद्या न विद्याक्षयो
नाविद्यक्षयो
ナ ウィッディャ- ナ
アウィディャー
ナ ウィッディャー クシャヨー ナ アウィッディャー クシャヨー
悟り がなく 無明 もない。
悟り がなくなること がなく 無明 がなくなること もない
यावन्न जरामरणं न जरामरणक्षयो
ヤーワンナ ヂャラー マラナン ナ ヂャラー マラナ クシャヨー
そしてついには 老・死 がなく 老・死が なくなること もない
न दुःखसमुदयनिरोधमार्गा न ज्ञानं
ナ ドゥッフカハ サムダヤ
ニローダハ マールガー ナ ギャーナン
苦 集 滅 道 がない。知ること がない。
न प्राप्तित्वम् ।
ナ プラープティットゥワム
得ること がない。
बोधिसत्त्वस्य
प्रज्ञापारमितामाश्रित्य
ボーディヒ サットゥワッスャ プラッギャー パーラミターム アーシュリッティャ
菩薩の 般若 波羅蜜多に 安んじて
विहरति चित्तावरणः ।
ウィハラティ チッタ アーワラナハ
安住している、心の(または心に) 障礙を。
चित्तावरणनास्तित्वादत्रस्तो
チッタ アーワラナ ナースティットゥワードゥ アットゥラッストー
心の 障礙が ないから 恐れがない。
विपर्यासातिक्रांतो निष्ठनिर्वाणः ।
ウィパリャーサ アティクラーントー ニッシュタハ
ニルワーナハ
顚倒を 超越し 涅槃に 入っている。
त्र्यध्वव्यवस्थिताः
सर्वबुद्धाः
トゥリャドゥワ ウィャワッスティヒタース サルワ ブッダハーハ
三世に 安住している 一切 諸仏は
प्रज्ञापारमितामाश्रित्यानुत्तरां
プラッギャー パーラミターム アーシュリッティャ アヌッタラーン
般若 波羅蜜多に 安んじて 無上の
सम्यक्संबोधिमभिसंबुद्धाः ।
サンミャク サンボーディヒム アビヒサンブッダハーハ
正等 覚に 到達した。
तस्माज्ज्ञातव्यः
タッスマーッヂ ギャータウヤハ
それ故に 知られるべきである。
प्रज्ञापारमितामहामंत्रो
プラッギャー パーラミター マハー マントゥロー
般若 波羅蜜多の 大いなる 真言
महाविद्यामंत्रो ऽनुत्तरमंत्रो
ऽसमसममंत्रः
マハー ウィッディャー マントゥロー ヌッタラ マントゥロー サマサマ
マントゥラハ
大いなる 悟りの 真言 無上の 真言 無比の 真言が
सर्वदुःखप्रशमनः
सत्यममिथ्यत्वात्प्रज्ञा-
サルワ ドゥッフカ プラシャマナハ サッティャム
アミッティヒャットゥワートゥ プラッギャー
一切の 苦を 鎮めるものであり
真実であるのは 偽りがないからで 般若
पारमितायामुक्तो मन्त्रः । तद्यथा
パーラミターヤーム ウックトー マントゥラハ タッドゥ
ヤタハー
波羅蜜多を 意味し説かれた 真言なのである。 すなわち
गते गते
पारगते पारसंगते
ガテー ガテー パーラ ガテー パーラ サン ガテー
到達者よ 到達者よ 彼岸 到達者よ 完全な 彼岸 到達者よ
बोधि स्वाहा ।
ボーディヒ スワーハー
悟りよ 幸あれ。
इति
प्रज्ञापारमिताहृदयं समाप्तम् ॥
イティ プラッギャー パーラミター フリダヤン サマープタム
と 般若 波羅蜜多の 心が 完結される。
『般若波羅蜜多心経』
般若心経 小本 梵文
般若波羅蜜多心經
唐三藏法師玄奘譯
觀自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色卽是空。空卽是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。是故空中。
無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。
無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。
乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅密多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離〔一切〕顚倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅密多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅密多。
是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。眞實不虛故。
說般若波羅蜜多咒。
卽說咒曰
揭帝 揭帝 般羅揭帝
般羅僧揭帝 菩提僧莎訶
般若波羅密多心經
『般若心経』漢文 中国語読み
般若波羅蜜多心経
唐三蔵法師玄奘訳
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五陰皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄不増不減。是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色声香味触法。
無眼界。乃至無意識界。無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅密多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離〔一切〕顚倒夢想。究竟涅槃。
三世諸仏。依般若波羅密多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅密多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。能除一切苦。真実不虚故。
説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰
掲帝 掲帝 般羅掲帝 :往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、
般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 :彼岸に全く往ける者よ、さとりよ 幸あれ。
般若波羅密多心経
『般若心経』漢文 日本語音読み
般若波羅蜜多心経
藤𠩤 研介 訳
全知者である覚った者に礼したてまつる。
観をも自在である聖なる菩薩は、深遠な智慧の完成、尊い存在のこしらえた甘味を実践していた時に、存在や物事には五つの構成要素があると考え観て、お伝えすることがよいと閃いた。しかも、これらの構成要素は、本性として、空笑の様に実体がないと考えると実践的で、危険な妄想や苦厄から免れうる考えであることを見抜いた。
シャーリプトラさん、
この世においては、色事の様な物質的現象は、空笑の様に実体がないと考え、よい意味で実体がなく空笑を保つ様であるからこそ、物質的現象として色事の様なことも存在し得ると考えるとよいと思いませんか。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいないと考えます。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではないとも考えます。
このようにして、およそ色事を含めた物質的現象というものは、すべて、よい意味で実体がない空笑の様なものと考えられます。およそ実体がないことは、物質的現象なのだと考えられます。
これと同じように、感覚も、表象も、意志も、知識も、実践的な物事の考え方としてはすべて実体がないと考えるとよいでしょう。
シャーリプトラさん、
この世においては、全ての存在するものには実体がない空笑の様な特性があると、実践的考察を踏まえて考えましょう。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもないと、これらは尊い存在の空笑である、と目覚めて日々を生活しましょう、そう考えると楽ですよ。
それゆえに、現世は実体がない空笑の様なものだと考えると平安だ、という考え方の実践においては、尊い方を想い続けて戒を保つなら、物質的現象にも、感覚にも、表象にも、意志にも、知識にも、尊い存在に反したものはないと考えましょう。眼にも、耳にも、鼻にも、舌にも、身体にも、心にもなく、形にもなく、声にも、香りにも、味にも、触れられる対象にも、心の対象にもない。眼の領域から意識の領域にいたるまでことごとく、尊い存在に反したものはない、と考えるとよいでしょう。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもないから、くよくよしないで努めましょう。こうして、ついに、老いも死も尊い存在に反することなく、老いと死で物質的な形がなくなることも、尊い存在に反することはないという境地に至りましょう。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを完全に制することも、苦しみを完全に制する方法もないことも動揺する必要はありません。知ることもなく、得るところもなくても、そうです。それ故に、実体ある尊い存在に反して得るということがない様に我々も努めますし、諸々の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住していると感じられる生活や心の実践をしましょう。心を覆うものがないから、恐れがなく、顚倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのだと明るく考え、日々を実践しましょうね。
過去・現在・未来の三世にいます目覚めた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめを覚り得られたから、それらも想い起こし、明るい平安に至りたいですね。
それ故にこう考えて平安に至るべきです。
智慧の完成の大いなる真言、大いなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、虚を使う惑わしすらないから真実である、と。
その真言は、智慧の完成において次のように説かれましたから、ご一緒に朗唱して鎮まりましょう。
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ。」
ここに、智慧の完成の心の甘味があり、現世に波立つ心が鎮まった。
『般若波羅蜜多心経』和文 邦訳
Heart Sutra
Avalokitesvara Bodhisattva
when practicing deeply the Prajna Paramita
perceives that all five skandhas are empty
and is saved from all suffering and distress.
Shariputra,
form does not differ from emptiness,
emptiness does not differ from form.
That which is form is emptiness,
that which is emptiness form.
The same is true of feelings,
perceptions, impulses, consciousness.
Shariputra,
all dharmas are marked with emptiness;
they do not appear or disappear,
are not tainted or pure,
do not increase or decrease.
Therefore, in emptiness no form, no feelings,
perceptions, impulses, consciousness.
No eyes, no ears, no nose, no tongue, no body, no
mind;
no color, no sound, no smell, no taste, no touch,
no object of mind;
no realm of eyes
and so forth until no realm of mind consciousness.
No ignorance and also no extinction of it.
and so forth until no old age and death
and also no extinction of them.
No suffering, no origination,
no stopping, no path, no cognition,
also no attainment with nothing to attain.
The Bodhisattva depends on Prajna Paramita
and the mind is no hindrance;
without any hindrance no fears exist.
Far apart from every perverted view one dwells in
Nirvana.
In the three worlds
all Buddhas depend on Prajna Paramita
and attain Anuttara Samyak Sambodhi.
Therefore know that Prajna Paramita
is the great transcendent mantra,
is the great bright mantra,
is the utmost mantra,
is the supreme mantra
which is able to relieve all suffering
and is true, not false.
So proclaim the Prajna Paramita mantra,
proclaim the mantra which says:
Gate, Gate, Paragate, Parasamgate, Bodhi Svaha!
Gate, Gate, Paragate, Parasamgate, Bodhi Svaha!
Gate, Gate, Paragate, Parasamgate, Bodhi Svaha!
『Heart Sutra』般若心経 英文 英語訳
『無量寿経』
oṃ namo daśadiganantāparyantalokadhātupratiṣṭhitebhyaḥ
sarvabuddhabodhisattvāryaśrāvakapratyekabuddhebhyo
’tītānāgatapratyutpannebhyaḥ ॥
namo ’mitābhāya namo
’mitāyuṣe
namo
namo ’cityaguṇākarātmane ।
namo ’mitābhāya
jināya te mune
sukhāvatīṃ
yāmi tavānukampayā ॥ 1 ॥
sukhāvatīṃ kanakavicitrakānanāṃ
manoramāṃ
sugatasutair alaṃkṛtāṃ ।
tavāśrayāṃ
prathitayaśasya dhīmataḥ
prayāmi
tāṃ bahuguṇaratnasaṃcayām ॥ 2 ॥
オーム。
十方の、果てもなく、
限りもない世界に安住される、
過去・未来・現在の、
一切の覚った人たち、
求道者たち、
教えを聞く修行者たち、
独り修行する修行者たちに礼したてまつる。
無量の光あるものに礼したてまつる。
無量の命あるものに礼したてまつる。
不可思議な幾多のすぐれた徳性を
具えたものに礼したてまつる。
無量の光あるもの、勝てるもの、
聖者であるおんみに礼したてまつる。
おんみのなさけによって、
<幸あるところ>に、わたしは往く。
<幸あるところ>には、
金色に輝くうるわしの林がある。
めでたき人(:仏)の子らに飾られて心たのしい。
名声あまねく、智慧を具えた
おんみのましますところ、
色々の珠宝の積み集められた、かの
<幸あるところ>に、わたしは往く。
『弥陀の本願』 出典『無量寿経』
sacen me
bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
nirayo vā tiryagyonir vā pretaviṣayo vāsuro vā kāyo bhaven
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 1 |
第1願 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に、
地獄や、畜生(動物界)や、餓鬼の境遇におちいる者や、アスラ(阿修羅)の群れ(:耐え難い苦しみをもつ存在たち)があるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tatra buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājātā bhaveyus te punas tataś cyutvā
nirayaṃ vā tiryagyoniṃ vā pretaviṣayaṃ vāsuraṃ vā kāyaṃ prapateyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 2 |
第2願 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもの中で、さらにそこから死没して(:被救済者には、どうなるか知ることは難しい領域においてであっても、)
地獄に堕ちる者や、畜生(動物界)に生まれる者や、餓鬼の境遇に陥る者や、アスラの群れとなる者があるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tatra buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājātās te cet savre naikavarṇāḥ syur yad idaṃ suvarṇavarṇā
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 3 |
3 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが、すべて一色、すなわち(譬えや言葉遊びを吟味した隠された意味において)金色でないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
devānāṃ ca manuṣyāṇāṃ ca nānātvaṃ prajñāyetānyatra
nāmasaṃketasaṃvṛtivyavahāramātrā devā manuṣyā
iti saṃkhyāgaṇanāto
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 4 |
4 世尊よ。かのわたくしの仏国土において、
ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう名稱で呼んで仮りに表示する場合を除いて、もしも、神々たちと人間たちとを(肯定的性質や礼節の模範等において、
神以外の者である両者を)区別するようなことがあるならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājātās te cet sarve
narddhivaśitāparamapāramitāprāptā bhaveyur antaśa ekacittakṣaṇalavea buddhakṣetrakoṭīnyutaśatasahasrātikramaṇatayāpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 5 |
5 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが皆、たとえ心のほんの一刹那の中にでも、百千億・百万の仏国土を飛び越えて行く(神足通)ということによってでも神通自在の最高の完成に達しないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājātā bhaveyus te cet sarve na jātismarāḥ syur antaśaḥ
kalpakoṭīniyutaśatasahasrānusmaraṇatayāpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 6 |
6 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万劫の過去の生涯を思い出すほどの前世の記憶(宿命通)がないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājāyeraṃs te sarve na divyasya cakṣuṣo
lābhino bhaveyur antaśo lokadhātukoṭīnayutaśatasahasradarśanatayāpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 7 |
7 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸世界を見るだけの超人的な透視力(天眼通)をもっていないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre ye sattvāḥ
pratyājāyeraṃs te sarve na divyasya śrotrasya lābhino bhaveyur antaśo
buddhakṣetrakoṭīnayutaśtasahasrād api yugapat saddharmaśravaṇatayā
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 8 |
8 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土からでも同時に正しい理法を聞くだけの超人的な聴覚(天耳通)を持っていないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājāyeraṃs te sarve na paracittajñānakovidā
bhaveyur antaśo buddhakṣetrakoṭīnayutaśatasahasraparyāpannānāṃ
sattvānāṃ cittacaritaparijñānatayā
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 9 |
9 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが皆、少なくとも百千億・百万の諸々の仏国土に属する生ける者どもの心の動きをすっかり知る超人的な読心力(他心通)を持っていないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājāyeraṃs teṣāṃ kācit parigrahasaṃjñotpady󠄁etāntaśaḥ
svaśarīre ʼpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 10 |
10 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に
生まれた生ける者どもが、少なくとも自分の身体について少しでも執着する想いを起こすようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ye sattvāḥ pratyājāyeraṃs te sarve na niyatāḥ syur
yad idaṃ samyaktve yāvan mahāparinirvāṇād
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 11 |
11 世尊よ。もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた生ける者どもが皆、大いなる心の平安(パリニルヴァーナ)に至るまでの間、いつかは正しく目ざめ(仏とな)るに決っている状態にいないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ʼnuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbuddhasya kaścid eva
sattvaḥ śrāvakāṇāṃ gaṇanām adhigacched antaśas trisāhasramahāsāhasraparyāpannā
api sarvasattvāḥ pratyekabuddhabhūtāḥ kalpakoṭīniyutaśatasahasram api gaṇayanto
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 12 |
12 世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを現に覚った後に、生ける者の誰かが、この(わたくしの)仏国土における<教えを聞くのみの修行者>の数を数えて知るようなことがあったら、たとえ、三千大千(の世界)に属する生ける者どもすべてが<独居する修行者>となって百千億・百万劫の間数えたのであったとしても、(とにかく、わたくしの仏国土における教えを聞くのみの修行者の数が知られるようであったら)、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavann anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbuddhasya tasmin
buddhakṣetre
prāmāṇikī me prabhā bhaved antaśo buddakṣetrakoṭīnayutaśatasahasrapramāṇenāpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 13 |
13 世尊よ。もしも、わたくしが<この上ない正しい覚り>を現に覚った後に、この(わたくしの)仏国土において、
わたくしの光が量の限られたものであるようであったら、たとえ百千億・百万もある諸々の仏国土の量(というような無限に近い量)に
よって限られているのであったとしても、(とにかく、量で限られているようであったら)、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavaṃs tasmin buddhakṣetre
ʼnuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbuddhasya sattvānāṃ
pramāṇīkṛtam āyuṣpramāṇaṃ bhaved anyatra praṇidhānavaśena
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 14 |
14 世尊よ。もしも、わたくしがこの上ない正しい覚りを現に覚った後に、このわたくしの仏国土において、誓願の力によって〔寿命を短縮する〕ものは別として、(とにかく)生ける者どもの寿命の量が、量り得られるようなものであるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasyāyuṣpramāṇaṃ paryantīkṛtaṃ bhaved antaśaḥ kalpakoṭīnayutaśatasahasragaṇanayāpi
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 15 |
第15願 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、わたくしの(幸福な)寿命の量が、たとえ百千億・百万劫(というような無限に近い数まで)数えたとしても、(とにかく)限界のあるものとされるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya tasmin buddhakṣetre sattvānām akuśalasya
nāmadheyam api bhaven
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim
abhisaṃbudhyeyam | 16 |
16 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得たを後に、かの仏国土の生ける者どもの間に、<悪い者>という名称だけでもあるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya nāprameyeṣu buddhakṣetreṣv aprameyāsaṃkhyeyā buddhā
bhagavanto nāmadheyaṃ parikīrtayeyur na varṇaṃ bhāṣeran
na praśaṃsām abhyudīrayeyur na samudīrayeyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim
abhisaṃbudhyeyam | 17 |
17 世尊よ、もしも、わたくしが覚りを得た後に、
無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、賞賛もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya ye sattvā anyeṣu lokadhātuṣv anuttarāyāṃ
samyaksaṃbodhau cittam utpādya mama nāmadheyaṃ śrutvā prasannacitā mām
anusmareyus teṣāṃ ced ahaṃ maraṇakālasamaye pratyupasthite bhikṣusaṃghaparivṛtaḥ
puraskṛto na puratas tiṣṭheyaṃ yad idaṃ cittāvikṣepatāyai mā tāvad aham anuttarāṃ
samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 18 |
18 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念いつづけていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、わたくしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasyāprameyāsaṃkhyeyeṣu buddhakṣetreṣu ye
sattvā mama nāmadheyaṃ śrutvā tatra buddhakṣetre cittaṃ preṣayeyur upapattaye
kuśalamūlāni ca pariṇāmayeyus te ca tatra buddhakṣetre nopapadyerann antaśo
daśabhiś cittotpādaparivartaiḥ sthpāyitvānantaryakāriṇaḥ saddharmapratikṣepāvaraṇāvṛtāṃś
ca sattvān
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim
abhisaṃbudhyeyam | 19 |
19 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、
無量・無数の仏国土にいる生ける者どもが、
わたくしの名を聞き、その仏国土に生まれたい
という心をおこし、いろいろな善根がそのために
熟するようにふり向けたとして、そのかれらが、
――無間業の罪を犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)障碍に蔽われている
者どもとを除いて――たとえ、心をおこすことが
十返に過ぎなかったとしても、〔それによって〕
その仏国土に生まれないようなことがあるようで
あったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye bodhisattvāḥ pratyājāyeraṃs te
sarve na dvātriṃśatā mahāpuruṣalakṣaṇaih samanvāgatā bhaveyur mā tāvad aham
anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam | 20 |
20 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、
その仏国土に生まれるであろう菩薩たちが皆、
偉大な人物に具わる三十二の特徴を身に具える
ようにならないのであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることが
ありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye sattvāḥ pratyājātā bhaveyus te
sarve naikajātipratibaddhāḥ syur anuttarāyāṃ samyaksaṃbodhau sthāpayitvā praṇidhānaviśeṣāṃs
teṣām eva bodhisattvānāṃ mahāsattvānāṃ mahāsaṃnāhasaṃnaddhānāṃ sarvalokārthasaṃnaddhānāṃ
sarvalokārthābhiyuktānāṃ sarvalokaparinirvāpitābhiyuktānāṃ sarvalokadhātuṣu bodhisattvacaryāṃ caritukāmānāṃ sarvabuddhān
satkartukāmānāṃ gaṅgānadīvālukāsamān sattvān anuttarāyāṃ samyaksaṃbodhau pratiṣṭhāpakānāṃ
bhūyaś cottaricaryābhimukhānāṃ samantabhadracaryāniyatānāṃ
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 21 |
21 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<この上もない正しい覚り>に向うものであり、それを得るために<もう一生だけこの世に縛られているだけの身>とならないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
ただし、(それは)大いなる(誓願の)鎧を身にまとい、すべての世間の利益のために鎧を身にまとい、一切の世間のために努力し、一切の世間を永遠の平安(ニルヴァーナ)に入らせるために努力し、一切の世界で求道者(菩薩)の行ないを実行しようと願い、一切の目ざめた人々に恭しく仕えようと願い、ガンジス河の砂(の数)に等しい(無数に多くの)生ける者どもを<この上ない正しい覚り>に向って安定させ、さらにその上の行の実践に向かい、サマンタ・バドラ(普賢)の行を実現することに定まっている求道者たち・すぐれた人々のたもつかの特別な誓願を除いてのことである。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tadbuddhakṣetre ye bodhisattvāḥ pratyājātā bhaveyus te
sarva ekapurobhaktenānyāni buddhakṣetrāṇi gatvā bahūni buddhaśatāni bahūni
buddhasahasrāṇi bahūni buddhaśatasahasrāṇi bahvīr buddhakoṭīr yāvad bahūni
buddhakoṭīniyutaśatasahasrāṇi nopatiṣṭheran sarvasukhopadhānair yad idaṃ
buddhānubhāvena
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 22 |
22 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者(菩薩)たちが皆、朝食前の(僅かな)時間に他の諸々の仏国土に行って、数百の多くの仏たち(諸仏)、数千の目ざめた人たち、数百千の多くの目ざめた人たち、数億の多くの目ざめた人たち、さらに、数百千億・百万の多くの目ざめた人たちに至るまで、楽しみを生ずるために必要なあらゆる種類のものを以て供養すること――それはすなわち仏の威力によってそうするのであるが――ができないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye bodhisattvā yathārūpeir ākārair
ākāṃkṣeyuḥ kuśalamūlāny avropayituṃ yad idaṃ suvarṇena vā rajatena vā maṇimuktāvaiḍūryaśaṅkhaśilāpravāḍasphaṭi-kamusāragalvalohitamuktāśmagarbhādīnāṃ
vānyatamānyatamaiḥ sarvaratnair vā sarvapuṣpagandhamā-lyavilepanacūrṇacīvaracchatradhvajapatākāpradīpair
vā sarvanṛtygītavādyair vā teṣāṃ cet tathārūpā ākārāḥ sahacittotpādān na
prādurbhaveyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 23 |
23 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者(菩薩)たちが、黄金や、銀や、宝石や、真珠や、瑠璃や、螺貝や、石や、珊瑚や、水晶や、琥珀や、赤真珠や、瑪瑙などのうちのどれか一つを以てでも、あるいはあらゆる宝をもってでも、あるいはまた一切の花や、薫香や、花かずらや、塗香や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、燈明や、あるいはまた、あらゆる踊りや、歌や、音楽などの、どのような形のものを以てしてでも、(仏を供養して)善根を植えようと願った時に、このような形のものが、かれらがその心をおこすと同時にあらわれて来ないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye sattvāḥ pratyājātā bhaveyus te
sarve na sarvajñatāsahagatāṃ dharmāṃ kathāṃ kathayeyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 24 |
24 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう生ける者どもが皆、<一切を知る智>(=仏の智)をともなった法話を話し得ないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre bodhisattvānām evaṃ
cittam utpādyeta yan nv ihaiva vayaṃ lokadhātau sthitvāprameyāsaṃkhyeyeṣu
buddhakṣetreṣu buddhān bhagavataḥ satkuryāmo gurukuryāmo mānayemaḥ pūjayemo yad
idaṃ cīvarapiṇḍapātaśayanāsanaglānapratyayabhai-ṣajyapariṣkāraiḥ puṣpadhūpagandhamālyavilepanacūrṇacīvara-cchatradhavajapatākābhir
nānāvidhanṛttagītavāditaratnavarṣair iti teṣāṃ cet te buddhā bhagavantaḥ
sahacittotpādāt tan na pratigṛhṇīyur yad idam anukampān upādāya
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 25 |
25 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土における求道者たちが、『われわれはこの世界に住んで、〔Ⅰ〕衣服や、〔Ⅱ〕飲食物や、〔Ⅲ〕臥床・座席や、〔Ⅳ〕病を癒す医薬という〔四種の〕生活用具や、花や、薫香や、香料や、花かずらや、塗香や、抹香や、衣服や、傘や、幢や、幡や、種々の踊りや、歌や、音楽や、宝石の雨を以て、無量・無数の仏国土にまします世尊・目ざめた人たちを恭敬し、尊敬し、尊重し、供養しよう。』という心をおこしたとして、その時に、かれらがその心をおこすと同時に、世尊・目ざめた人たちが、あわれみの心をおこしてこれらを受け入れるようなことがないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tadbuddhakṣetre ye bodhisattvāḥ pratyājātā bhaveyus te
sarve na nārāyaṇavajrasaṃhatanātmabhāvasthāmapratilabdhā bhaveyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 26 |
26 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれるであろう求道者たちが皆、ナーラーヤナ神が金剛で打つような強固な体や力を得るようにならないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre kaścit sattvo ʼlaṃkārasya varṇaparyantam
anugṛhṇīyād antaśo na divyenāpi cakṣuṣaivaṃvarṇam evaṃvibhūtīdaṃ buddhakṣetram
iti nānāvarṇatāṃ saṃjānīyān
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 27 |
27 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる生ける者どもの誰かが、飾りの美しさの限界をとらえていて、たとえ超人的な透視力(天眼)によってであったとしても、『この仏国土はこのような美しさである、このような壮麗さである。』と、種々の美しさを〔知ることはできないはずであるのに、〕もしもその美しさを知っているようなことがあるようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre
yaḥ sarvaparīttakuśalamūlo bodhisattvaḥ sa ṣoḍaśayojanaśatocchritam
udāravarṇabodhivṛkṣaṃ na saṃjānīyān
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 28 |
28 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において善根を積むこと極めて少ないいかなる求道者であっても、少なくとも高さが千六百ヨージャナある彩りすぐれた菩提樹を認め知るようなことがないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre kasyacit sattvasyoddeśo vā svādhyāyo
vā kartavyaḥ syān na te sarve pratisaṃvitprāptā bhaveyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 29 |
29 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる或る生ける者が、(法を)説示したり、(経文を)誦えたりせねばならぬことがあったとして、(そのときに)かれらすべてが、とどこおりの無い理解表現力を得ないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya naivaṃ prabhāsvaraṃ tad buddhakṣetraṃ bhaved yatra
samantād aprameyāsamkhyeyācintyātulyāparimāṇāni buddhakṣetrāṇi saṃdṛśyeraṃs tad
yathāpi nāma suparimṛṣṭa ādarśamaṇḍale mukhamaṇḍalaṃ
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 30 |
30 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土が、たとえばよく磨かれて清らかな円鏡の中に映った顔面のように、その中であまねく無量・無数・不可思議・無比・無限の諸仏国土が見られ得るような、輝かしい光あるものとならないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre dharaṇitalam upādāya yāvad antarīkṣād
devamanuṣyaviṣayātikrāntasyābhijātasya dhūpasya
tathāgatabodhisattvapūjāpratyarhasya sarvaratnamayāni nānāsurabhigandhaghaṭikāśatasahasrāṇi
sadā nirdhūpiāny eva na syur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 31 |
31 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土において、地面から天空に至るまで、神々と人間の境域を超えて香り高い薫香、如来と求道者(菩薩)とを供養するにふさわしい薫香が、あらゆる宝石からできていて種々の芳香ある百千の香炉に常に焚かれて薫っているようでなかったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre na sadābhipraviṣṭāny eva
sugandhinānāratnapuṣpavarṣāṇi sadā pravāditāś ca manojñasvarā vādyameghā na
syur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 32 |
32 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に、芳香ある種々の宝石の花の雨が常に降りそそぐことが無く、また妙なる音声を出す楽器の雲が常に(音楽を)奏でているということがないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya ye sattvā aprameyāsaṃkhyeyācintyātulyeṣu lokadhātuṣv
ābhayā sphuṭā bhaveyus te sarve na devamanuṣyasamatikrāntena sukhena
samanvāgatā bhaveyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 33 |
第33願 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが(わたくしの)光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya samantāc cāprameyāsaṃkhyeyācintyātulyāparimāṇeṣu buddakṣetreṣu
bodhisattavā mama nāmadheyaṃ śrutvā tacchravaṇasahagatena kuśalamūlena
jātivyativṛttāḥ santo na dhāraṇīpratilabdhā bhaveyur yāvad bodhimaṇḍaparyantam
iti
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 34 |
34 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞いて、それを聞いたことにともなう善根によって、迷いの生存を除いているから、以後、覚りの座に至るまで、神秘な保持能力(記憶して忘れない力)を得ないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya samantād aprameyāsaṃkhyeyācintyātulyāparimāṇeṣu
buddhakṣetreṣu yāḥ striyo mama nāmadheyaṃ śrutvā prasādaṃ saṃjānayeyur
bodhicittaṃ cotpādayeyuḥ strībhāvaṃ ca vijugupserañ jātivyativṛttāḥ samānāḥ
saced dvitīyaṃ strībhāvaṃ pratilabheran
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 35 |
35 世尊よ。わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱してからふたたび女人の身をうけるようなことがあったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya samantād daśasu dikṣv aprameyāsaṃkhyeyācintyātulyāparimāṇeṣu
buddhakṣetreṣu ye bodhisattvā mama nāmadheyaṃ śrutvā praṇipatya pañcamaṇḍalanamaskāreṇa
vandiṣyante te bodhisattvacaryāṃ caranto na sadevakena lokena satkriyeran
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 36 |
36 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく十方の無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちが、わたくしの名を聞いて、五体投地の礼によってわたくしに敬礼し、求道者の行ないを実行しているのに、神々と人間との世間から敬礼されないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚る
ことがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya kasyacid bodhisattvasya cīvaradhāvanaśoṣaṇasīvanarajanakarma
kartavyaṃ bhaven na navanavābhijātacīvararatnaiḥ prāvṛtam evātmānaṃ saṃjānīyuḥ
sahacittotpādāt tathāgatājñānujñātair
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 37 |
37 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者の中の誰かが、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色をしようと思い立つと同時に如来が許された宝のような立派な新調の衣服を自分の身につけていることも気がつかないで、衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色の仕事をしなければならないようであったら、(譬えとしても理解することが必要であるし、生活必需品やお仕事について肯定的に智慧を磨けない様であったら、)
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sasen me bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre
sahotpannāḥ sattvā naivaṃvidhaṃ sukhaṃ pratilabheraṃs tad yathāpi nāma niṣparidāhasyārhato
bhikṣos tṛtīyadhyānasamāpannasya
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 38 |
38 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる生ける者どもが、生まれると同時に、あたかも第三の心の安定(第三禅)を得て燃えさかる苦悩のなくなった敬わるべき人・修行僧のような安楽さを得ないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることが
ありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre
ye bodhisattvāḥ pratyājātās te yathārūpaṃ buddhakṣetraguṇālaṃkāravyūham
ākāṃkṣeyus tathārūpaṃ nānāratnavṛkṣebhyo na saṃjānīyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 39 |
39 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた求道者たちが、希望する通りの仏国土のみごとな特徴や装飾や配置を、さまざまな宝石のあいだから気づき認めることができないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya taṃ mama nāmadheyaṃ śrutvānyabuddhakṣetropapannā
bodhisattvā indriyabalavaikalyaṃ nirgaccheyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 40 |
40 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の仏国土に生まれた求道者たちがわたくしの名を聞いて、しかも、いずれかの感官の能力を欠いているようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tadanyabuddhakṣetrasthā bodhisattvā mama nāmadheyaṃ
śrutvā sahaśravaṇān na suvibhaktavatīṃ nāma samādhiṃ pratilabheran yatra
samādhau sthitvā bodhisattvā ekakṣaṇavyatihāreṇāprameyāsaṃkhyeyā-
cintyātulyāparimāṇān buddhān bhagavataḥ paśyanti sa
caiṣāṃ samādhir antarā vipraṇaśyen
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 41 |
41 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の仏国土に住む求道者たちがわたくしの名を聞いて、聞くと同時に<よくことばを分別する>と名づける心の安定――その心の安定に住していながら求道者たちが、一刹那の間に無量・無数・不可思議・無比・無際限の目ざめた人たち・世尊たちを見ることができるのであるが、――を得ることができず、また、その心の安定が中間で消えてしまうようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya mama nāmadheyaṃ śrutvā tacchravaṇasahagatena
kuśalamūlena sattvā nābhijātakulopapattiṃ pratilabheran yāvad bodhimaṇḍaparyanataṃ
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 42 |
42 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、〔かの(仏国土以外の)他の仏国土にいる〕生ける者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に、(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、(その時から)覚りの座を究めるに至るまでの間、高貴の家柄に生まれることができないようであったならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることが
ありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya tadanyeṣu buddhakṣetreṣu ye sattvā mama
nāmadheyaṃ śrutvā tacchravaṇasahagatena kuśalamūlena yāvad bodhiparyantaṃ na
sarve bodhisattva-
caryāprītiprāmodyakuśalamūlasamavadhānagatā bhaveyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 43 |
43 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の仏国土の生ける者どもがわたくしの名を聞いて、それを聞くと同時に(聞くことによって積まれたことになる)善根によって、ついに(その時から)覚りを究めるに至るまでの間、皆、求道者の行ないを喜び、歓喜する善根に会い合する(=身につける)ことができないようであったならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya sahanāmadheyaśravaṇāt tadanyeṣu lokadhātuṣu bodhisattvā
na samantānugataṃ nāma samādhiṃ pratilabheran yatra sthitvā bodhisattvā ekakṣaṇa-vyatihāreṇāprameyāsaṃkhyeyācintyātulyāparimāṇān
buddhān bhagavataḥ satkurvanti sa caiṣāṃ samādhir antarā vipraṇaśyed yāvad
bodhimaṇḍaparyantaṃ
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
| 44 |
44 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の世界にいる求道者たちが、(わたくしの)名を聞くと同時に、<あまねく至る>と名づけられる心の安定――求道者たちがその心の安定に住して、一刹那の経過の間に無量・無数・不可思議・無比・無限量なる(多くの)目ざめた人たち・世尊たちを恭敬することができるのであるが、――を得ることができなくて、また、かれらのその心の安定が、覚りを究めるに至るまでの間に中間で消えてしまうようであったならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye bodhisattvāḥ
pratyājātā bhaveyus te yathārūpāṃ dharmadeśanām ākāṃkṣeyuḥ śrotuṃ tathārūpāṃ
sahacittotpādān na śṛṇuyur
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
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45 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれたであろう求道者たちが、説法を聞きたいと願ってそういう心をおこすと同時に、期待するとおりの説法を聞くことができないようであったら、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me
bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre tadanyeṣu buddhakṣetreṣu ye
bodhisattvā mama nāmadheyaṃ śṛṇuyus te sahanāmadheyaśravaṇān nāvaivartikā
bhaveyur anuttrāyāḥ samyaksaṃbodher
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
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46 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの(仏国土以外の)他の諸々の仏国土においてわたくしの名を聞くであろう求道者たちが、名を聞くと同時に<この上ない正しい覚り>から退かない者になれないようであったならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。
sacen me bhagavan bodhiprāptasya tatra buddhakṣetre ye bodhisattvā mama
nāmadheyaṃ śṛṇuyus te sahanāmadheyaśravaṇān na prathamadvitīyatṛtīyāḥ kṣāntīḥ
pratilabheran nāvaivartikā bhaveyur buddhadharmebhyo
mā tāvad aham anuttarāṃ samyaksaṃbodhim abhisaṃbudhyeyam
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第47願 世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞くであろうが、名を聞くと同時に第一、第二、第三の認知(:忍)(名は名であり、言語や疎通媒体の性質により、名は解釈が幾らでも変えられること等の注意が必要だ、と名や宗教文などを観察し、本当に大事なことを見失わない覚り)を得ることができず目ざめた人の法から退かない者になれないようであったならば、
その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。 『弥陀の本願』 出典『無量寿経』
47(無量寿経 最終段落)
idam avocad
bhagavān ।
āttamanā āyuṣmāñ
śāriputras te ca bhikṣavas te ca bodhisattvāḥ sadevamānuṣāsuragandharvaś ca
loko bhagavato bhāṣitam abhyanandan ॥
sukhāvatīvyūho nāma
mahāyānasūtram ॥
47段落(最終行 中文 訳)
仏説経已、弥勒菩薩及十方来諸菩薩衆、
長老阿難諸大声聞、一切大衆、
聞仏所説、靡不歓喜。
仏説無量寿経
47段落(最終行 和文 訳)
師がこれを説かれたところ、
求道者・立派な人・アジタや、
若きアーナンダ尊者や、その集まりにいたすべての人々や、
神々や、人間や、アスラや、ガンダルヴァや、世間の者どもは、
師の説かれたところを歓喜したのであった。
世尊・無量光〔如来〕の、
<幸あるところ>の功徳の称賛、
求道者たちの<退かない境地>への入門、
無量光の章、
<幸あるところの美しい光景>という章を終わる。
(51+73+11+72+46+68+43+ =+364+ )
南無阿弥陀仏。(南無阿弥陀仏、)
南無阿弥陀仏。(Nam-AMIDA-butsu.)
南無阿弥陀仏。(ナムהדימעブツ。)
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(なむあみだぶつ。)
( )(十返、繰り返す。∵19願)
『六字名号』念仏
竊廻愚案、粗勘古今、
歎異先師口伝之真信、思有後学相続之疑惑。
幸不依有縁知識者、争得入易行一門哉。
全以自見之覚悟、莫乱他力之宗旨。
仍故親鸞聖人御物語之趣、所留耳底、
聊註之、偏為散同心行者之不審也、云々。
ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘ふるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思ふ。幸に有縁の知識に依らずば、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟を以て他力の宗旨を乱ることなかれ。よつて、故親鸞聖人の御物語のおもむき、耳の底に留まる所いささかこれをしるす。ひとへに同心行者の不審を散ぜんがためなりと。云々。
〔一〕
一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこゝろのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にてまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへにと、云々。
『歎異抄』
第二条 (抜粋、古典仮名遣い、原文縦書き)
念仏は、まことに浄土にむまるゝたねにてやはんべるらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。そのゆへは、
自余の行をはげみて仏になるべかりける身が、
念仏をまうして地獄にもおちてさふらはゞ
こそ、すかされたてまつりてといふ後悔
もさふらはめ、いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈、虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然のおほせそらごとならんや。法然のおほせまことならば、親鸞がまうすむね、またもてむなしかるべからずさふらふ歟。詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、
念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと、云々。
TAN-NI-SHOW
(A Tractate Deploring Heresies Against True Faith & Others)
The Second Chapter
(Excerpt, Historical KANA orthography)
I don’t know at all whether
the NEMBUTSU may truly be the cause
to rebirth in Pure land or may be
the karma to go down to hell.
Even if I were deceived by my
teacher, Saint Honen, and as a result I were turned into hell in spite of
calling
the NEMBUTSU, I would never repent of that. This is the reason why : Were
I the sort of man who could become
a BUDDHA through devotion to
the other, stern, ascetic
exercises, and yet descended into hell by
the NEMBUTSU, then I might regret
having been deceived by my teacher.
But since I am such a man as can’t
attain any religious practice, hell is supposed to be my dwelling place after
all.
If The Original Vows of AMIDA be true, the preaching of Shakamuni can’t be
false. If the teaching of Shakamuni be not false, the commentaries of Zendo
must be true. If the commentaries of Zendo be true, how can the words of Honen
be false? And if the words of Honen be not false, can the words which I,
Shinran speak be vain? After all, the faith of such an ignorant person as
myself is like that. Now that I have told you in that way, it surely depends
upon your discretion whether you would accept and believe in the NEMBUTSU or
cast it aside.
『歎異抄』第二条(抜粋) 英訳
まことに、われもひとも、そらごと を のみ まうしあひ さふらふ
なかに、ひとつ いたましきことの さふらふ なり。そのゆへは、念仏まうすについて、信心の をもむき をも たがひに問答し、ひとにも いひきかする とき、ひとのくちを
ふさぎ、相論のたゝかひ かたんがために、またく おほせにてなきことをも、おほせとのみまうすこと あさましくなげき存じ さふらふ なり。このむねをよくよくおもひとき、こゝろえらるべきことに
さふらふ なり。これさらにわたくしの ことば に あらず と いへども、経釈のゆくぢもしらず、法文の浅深をこゝろえわけたることも さふらはねば、さだめて おかしきこと
にて こそ さふらはめども、古親鸞のおほせごと さふらひし をもむき、百分が一、かたはしばかりをも おもひいでまいらせて、かきつけ さふらふ なり。かなしきかなや、さひはひに念仏しながら、直(ぢき)に報土にむまれずして辺地に やど を とらんこと。一室の行者のなかに信心ことなる
こと なからん ため に、なく〱(なくなく)ふでをそめて、これをしるす。なづけて歎異抄といふべし。外見(ぐわいけん)あるべからず。
『歎異抄』
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